ただ在る在り方

在り方についてしばらく考えている。

“在”

才  本来あるもの、才質。祓い清められた存在をあらわす聖標識サイ。

士  空間を守る刃器。

こんな甲骨のエレメントからなるこの文字は、

本来あるべき状態に祓い清め守られたなら、

その在る処は聖地なり。と伝えているように感じます。

では自分が聖地になっちゃうみたいな、そんな在り方に近づくには、、?!

 

余分な力みとその積み重ねによる不必要な心身のメモリーをとりのぞくことなんだろうな。

 

ガレージにあった行き場のない刃にの先っぽに“在”の甲骨文字を描きました。

玄関に置き棲家を守ってもらいます。

 

 

こととしてのからだ 2

からだの こと “殊”  “異”  ”言“ に気づこうとすることから、

こととしてのからだに向かうことがはじまるようです。

こととしてのからだの感覚を当たり前のように持っていた古代の人々から、これらの文字が生まれたんだなあ。

それを今、私は逆から辿っていこうとしている、、。

 

「動きの感覚とは、からだの中身の差異を感じとり、その変化・流動・関係を感じとる感覚である。」 野口三千三

 

 

こととしてのからだ 3 静かな祭

甲骨の“事”という文字は大切な願いや誓いを入れた器を木枝にくくりつけ捧げる象(かたち)。

それは祭事であり大事であるので枝には吹流しがたなびいている。

“事” とはそれだけで一大事なのだ。

 

大好きな盆踊りはキャンセルです。

しかし、からだは動き、流れ、変化し 

”わっしょい わっしょい !!」常に祭りです。

とても大事な“こと”が起こり、連なり、それを繰り返し、

厳かで静かなる祭りは自粛のしようなどありません。

 

その祝福の連続の中に実は私達はいるのだと実感してあげたいな、

あげようね、と肩の力を抜いたのでした。

 

『体操とは、今「もの」であるからだを「こと」としてのからだに生まれ変えらせようとするいとなみである。』 野口三千三